昭和46年07月12日 朝の御理解



 御理解 第86節
 「女は世界の田地である。世界の田地を肥やしておかねば貴いものができぬ。女は家の家老じゃ。家老がようなければ城がもてぬというが、女がようなければ家がもてぬ。」

 女が良いと言うことです。女がようなければと、と言うことは、どういう事だろうか。私は、今日、ここのところから、御礼を言う心、御詫びをする心。私はこれが女の姿。本当の女がようなければと言うのは、そういう人を言うのではなかろうかとこう思う。御礼を言う、詫びる、御詫びをする。昔から、女が賢うして牛売り損なうというような事を申します。女の出過ぎるところ。女が余り利発に出来ておるところ。主人に代わって、自分が、言うならば、主人を尻に敷いておるような人。
 それでは本当の繁盛はできない。どこまでも男が願うなら、女は御礼を言うと言う様な心。又欠けておる所は詫びていくと言う様な心。男に真の働きの原動力を与えれる内容を持っておるという事が私は本当なここで仰る、良い家老という事になるのじゃないだろうかと思いますね。桃太郎さんのお話じゃないですけれど、お爺さんは矢張り山に芝刈りに行くのであり、お婆さんは川に洗濯に行くのであるそういうおかげ。
 ところが、お婆さんが山に行こうという。あなたたまには洗濯ぐらいしなさいという様な、そういう生き方が、本当の、如何にもそれは理想的のようである。所謂、男女同権。間違えるとそういう事になる。もう家では炊事は主人と、日曜の時には主人がやってくれる事になっとりますと、大変仲の善いところを言っておるようであって、実は私は、気の毒な家庭と思うですね。矢張りどこまでも、女は、お婆さんは川に洗濯にであり、お爺さんは山に芝刈りである。 
 昨日、一昨日だったですか、善導寺の原さんが、奥さんの方がお届けされるんです。家のは、ほんの職人気質で、ご承知のようにですね、物は言われません。お客さんが見えても、まちっと説明すりゃよかとにせん。まぁ一言ずつ押してみりゃ出来そうな商いでも出来ない。まあそれを横から見とって歯痒うしてこたえん。先生、こげな時には、どうか言うて良いもんでしょうかと言われる。私が言うちゃならん言うちゃならんとこう言う。そして祈りなさいち。
 口上手に主人が言うたから商いが出来たというのじゃなくて、何とはなしに物は言われんけれども、心からにじみ出てくるもの。人の善さと言うか、人柄と言うか、何かそこで大ものは言われんけれども、そういう雰囲気を持ったおかげをその場で表して行くために、家内は後から願いなさい。女はもう後祈念で。それがおかげだ。先日菊栄会の方達と一緒に、佐賀の方の何とかと言う窯元に窯巡りを致しました時に、二軒か三軒かありましたが、はじめて行ったところの。
 そこの奥さんという人が、大変な雄弁家で、私ども大変喜んで迎えられて、そして掛かり切って、ずうっとその陶器の説明をされてから、もう立つにも立たれん。まあだから余り言いなさるけん、一つくらい買わじゃこてと思うことは思うばってん、あんまりお話を、言わば、あんまりむごう言いなさるもんじゃから、嫌気がさして、終いには、一人一人逃げるようにそこを出ていって、私が、最後に小さい、今、脇殿のところに水差しがありましょう、あの水差しを一つ買わせて頂いた。
 そしてその方の弟さんのお家という、まぁ上の段にあります窯元に参りましたら、何とも言えん。やっぱ、嫁さんが相手されましたけれども、物を言われんですね。それでいて、こちらから聞いたことだけは言われて、もう結局、十人余り行った者が、みんな沢山そこで買物を致しました。はぁ成程、女賢うして牛売りそこなうとは、こういう事だろうと私は思いましたね。自分としては、それは主人に代わって大奮闘しておるつもりなんですよ。これでは善い家老とは言えません。
 さぁいよいよ何かという時には、どっこいと、さぁお父さんしっかりやって下さいと、陰の力、陰の祈りになっていく家内。久留米の佐田さんが、まぁ或る意味で無言の行をなさっておられます。皆さんもご承知のように、信心も大変出来ておられる。内容を持っておられる。だからお話の会合なんかの時には、もうそれこそ、自分の内容を持っておるものですから、矢張り一言どうか言わねばおられん様なものを内容に持っておられる。言い出すと、中に内容が沢山あるものですから、限りなく出て来る。
 それで私は、佐田さん、この正月に、お婆ちゃんでしたかね、鰐口のお知らせを頂かれた。自分はくちなしの花のお知らせを頂いておられる。くちなしと言うことは、無言であると言うこと。鰐口と言うのは口が広すぎるという事。だからいっちょ、あなたのその素晴らしい信心を、内容にずうっと押込んでいくようなおかげ。そういう祈りが出来る、それが祈りになって表れてくる。
 御主人のお仕事の上にも、例えば共励会なら共励会にやらせて頂いて、それは皆さんがお話をしとられるのに、自分が思うてる事が本当と思うても、そこはじっと、だからあれ程の雄弁です、佐田さんの奥さんは、大変なお話が上手です。もう聞いとって飽かんです。けれどもね、佐田さん、私としてはですよ、例えば私が金光様の先生である、教会長である限りですね、例えば私の信心でも、本当の信心をわかって、一生懸命、言うならば、お話してもらう事は、ここの宣伝になることですからね。
 佐田さん一口どうのと言いたいところですけども、これは私がおかげ頂くのじゃいけん。佐田さん自身がおかげ頂かっしゃらにゃいかんと思うですから。最近はもう本当に徹底して、物を言われない修行をなさっておられます。それが以前はですね共励会なんかの時に一緒におると、もう内容に持っておられるものですから、人がお話をしておられるのを見てから、もう歯痒うしてたまらん様な表情がね私が感じよったんです。
 ところがところがどうして、この頃はね、もうじっと物を言わんで済むことの有難さがこの頃は身について来よんなさる様な感じがする。原さんじゃないけれども、あちらのご主人も、どっちかと言うなら、大ものは言われない方。だからさぁ本当に言わにゃおられんごたるところでもあろうけれどもです、そこを私は黙って祈るということ。私はそういう家内でなからなければ家は繁盛せんと思うですね。
 それは佐田さんとしては大修行であろう思う。原さんに於いてもそういう時一口、今までなら言いよったつを言わんですむ。自分が横から一口押してやりゃこの商いが出来ると思う時に言わんですむ。まあ主人が歯痒うてこたえん。そういう歯痒うしてこたえんものが、反対に言わんで祈らせてもらうことが有難いと、わからせて頂くような家内が、ここで仰る、良い家老じゃと言うのは、そういう家老です。しかも女はどこまでも御礼に徹していくもの、御礼に。御詫びに徹していくもの。
 主人がどこでどういうお粗末、ご無礼があっとるかもわからん。こういう事態になってきたことも、と、詫びていくという事。又は御礼を申し上げていくという事。だから主人が願うなら、家内が礼を言う。これは一つの表現。例えですよ。女が願うちゃならんと言うのじゃない。女は家の家老じゃと言う。世界の田地と仰る。その世界の田地と言うものは、発散したらどういう事になりますか。地は肥えないでしょうもん。言いたいこともある。ここに一言と思うこともある。
 けれども、それをじっと一切合切を自分の心の中に頂いて、むしろそれを御礼を言う様な心。 これは特に、女の方に今日は、言うておるようですけれども。決して女の方の事ではないです。人間の心の中には、その陰陽という心があるのです。男の心、女の心。その心が、本当に素晴らしい拝み合いが出来る時に、そこから良いものが生まれるのです。ですからここには、はっきり女と、こう別のように言うとられますけれども、そうじゃない。人間の皆が持っておる内容でもあるわけです。
 取分け女賢しゅうして牛売り損なう。そういう例を私どもこの頃これは本当に実感いたしました、この頃の陶器の窯元に行った時に。それは本家の方の奥さんは、もうそれこそ、水も洩らさんごとやられるけども、こちらが何か嫌になってくるです。何か高いもの押し付けられるとじゃなかじゃろうかと言うような気がする。それで皆が早うその奥さんの言わっしゃるとば、早う逃げ出さにゃおられんち言う感じがしたんです、本当みんな。そして、ほんなら上の段の弟さん方へやらせて頂いたらそうじゃない。
 もう受け身です。こちらが尋ねると説明をなさる。どうぞお気に入ったら買うて下さいと言うて、さぁそこで皆がもう、それこそいっぱいのものを買いました。佐田さん辺の場合、原さん辺りの場合、随分商いを取り逃がしなさったこともあろうと思いますね、商売人ですから。それこそ牛売り損ねたことが、恐らくあるだろうと思いますね。それを例えば、言わんですむ。言いたい、けども全部自分の心の中に、それをしまっていく。私はそういう事がです、心がいよいよ豊かに肥えてくる。
 豊かに肥えてくるからです、そこから生まれてくるのは、もうそれこそ唱えごとの様に、有難うございます有難うございますと言うところまで、おかげ頂かにゃいかん。豊かな心から生まれてくるところの有難うございます。又は、そういう心で、願っちゃならんわけではありませんから、そういう心で願う。又、御詫びをする、そのゆとり。昨日から一昨日にかけて、昼の御祈念でしたか、今、何回も、修行中ですからお参りになる。月次祭の晩だったか、だから三回目のお参りの時です。
 皆さんより一足早う出て見えられた。さぁ自動車の中で、何か訳はわからんけれども、有難うして、有難うして、もう有難うして有難うしてこたえん。ここに着かせて頂いたら爆発する様に有難い。さぁその有難さがどこから湧いてくるのであろうか。心が肥えて行きよんなさるからです。今までは、それは素晴らしい事を言いござった。素晴らしいお話をなさる。けども、それは全部発散されておる。それがじっと心の中の根肥やしになってくる。その事が有難うして有難うしてこたえん。
 そしたら神様からね「磐梯山、磐梯山」と二言頂かれた。昨日も又同じ有難うして有難うしてと言うて、お参りの途中に又同じく「磐梯山、磐梯山」と言うことを頂かれた。私も、実は今朝、御祈念の中で磐梯山と言う事を頂いた。あれは民謡にありますよね。所謂、磐梯山は宝の山だと言うのです。笹に黄金かなり下がる。私はもう佐田さんはね、もう一歩、磐梯山に踏み込んでおられると思いますね。その有難さが今度は物言うて来るです。しかしまぁ言わんですむなら、こげな有難い事はないですね。
 もう最近、口を開けば、公害の話が新聞紙上でも賑わってますし、信心者としてもそうです、金光教は、公害にどう取組んでおるかと。そして真剣にそれを社会問題として教団自体が取り上げて、その公害の問題に取組んでおると。最近、先日の中央公論のね、中央公論のそれにも、金光教は、公害のことについて、布教部長と教官でしたかね、二人がその事についての対談が載っておりました。大変な事だと言うわけなのです。けれども実はね、私も、親先生、あなたはどう思いなさるですかと。
 よくあの五日の青年会の時に、そういう問題が出たんですけれどもね。私、いっちょんそれを考えてないのです、実を言うたら。それは随分の公害、それは大変な事ですよね。けれども私はね、もうそこまでに至ったと言うことを、神様に心から御礼を申させて頂きよります。そこまで人間が、智恵が発達したということなのですよ。人間が、言わば月の世界にも行けれるようになったということなんですよ。そこまで育ったということなんです。そしてどういう事になっておるかというと、育った。
 そして人間の力で、月の世界にも行けれるぞと言うところまで行った。言うなら、月の世界は、これから征服できるところまで行った。ところが、そういう事が出来たからと言うて、人間の幸福には、大して関り合いがないと言うこと。月の世界に行ったから、心が綺麗なるということはないのです。そして言うておることは、そこまで行った。所謂、科学を治めていかれる人達が、最高の学問を身につけていく人達がです、言っておることは、もうこれからは、心の時代だと言ってますね。
 それを心だけじゃいかん。その心が教祖金光大神が仰る、和賀心なのであります。その和賀心自体がね、どういう事ですか。その和賀心自体が只今私が申します、黙って受けて、心が肥えるということなんです。だからこりゃ女だけじゃないでしょうが。私どもの持っておる半面、所謂、陰陽と言うならばです、陰と陽の女性的な面がです、心が肥えている。いわゆる天地日月の心になること肝要と仰せられるような、受けて受けて受け抜かせて頂いて、いよいよ心が豊かに肥えていくような生き方なんです。
 そこまでですね人間がね、考えが至ったという事がです。私は大変有難いことだと思うのです。成程公害もさることながらです、自分達の智恵やら力で自分達が自分の首を絞めるようなところまで発達したのです言うならば。その発達した事も、だから私は御礼を申し上げなければいけないと思うのです。同時にそこに至った時にです、人間の智恵やら力で出来ることじゃない世界をです、所謂、人間が開眼しだした。そしてこれから先は、心の世界だと言うように言うてきたという事はです。
 これは大変な有難いことですから、私は公害という事になってくると言うと、いつも私は御礼を言う心しか生れてこんです。何故ってもう人間がここに至ったんです。ここに気付いたんです。ですからもうこれ以上の公害はないでしょう。そしてそこに善後策が講ぜられるでしょう。いろんな最高の智恵がです、今度は反対に、それを締め出していくところの働きが生まれるでしょう、全世界を上げて。ですから御礼を申し上げなければおられんじゃないかと私は思うのです。
 三代金光様が、ある時に、お退けになられた。ある偉い先生が御機嫌伺いに出られた。まあところが、金光様のお部屋に、お孫さん方が入られて、障子は破られる、まぁどんどんとごえなさる。もうそれこそ、行かれた先生がびっくりされた。それで先生が金光様に申し上げなさった。金光様、大変お賑やかな事ですねち言うてから、もうちょいと喧しいという意味ですね。大変お賑やかですねち言うてから、ご挨拶申し上げたら、金光様が仰った。「はい、大変よく働いてくれます」と仰ったそうです。
 素晴らしいでしょう。悪いことが出来るくらいに、一生懸命、とごえが出きるくらいにね、子供がもうその、とごえる事が働くことなんです。人間が一生懸命働く。体だけじゃない頭も働かせる。働かせてそこに襖を破ったからと言うて、ガラスを割ったからと言うて、お前達はどうしてと言うことはないて、もうよう働いてくれますのですから御礼を申し上げるより他にないと。
 私は公害の問題では、そういう見方をしております。だからせめて、私だけなっとん、芯から御礼を申し上げにゃならんと思うて、公害のことについては、私は御礼を申し上げておる。人間の力でそこまで、出来たり、又はそれがわかっていきよると言うことがそれ。そういう心がです、今申しますように、これに受けて受けて、良い家老じゃと言われるだけの信心。お爺さんが山に芝刈りに行くならば、お婆さんは、やっぱり川に洗濯にでなからなければいけないと。
 そういう時代にならなければ駄目だと。時には爺さん、あんたも洗濯に行きなさい何ち言うような時代じゃ駄目だと。そういうところにです、段々気が付いてきているわけですよね人間は。今日は十二日ですから、美登里会です。まぁ合楽の中心をなさる、中心になられる婦人部の方達が、二十名余り、次々集まって信心共励をなさいます。中々良い共励が出来ます。この会が生まれます時に、会の名前を頂きたいと言うことでした。神様にお願いさせて頂きましたら、みどり美しく登る会、美登里会と頂いた。
 登ということは山登りと言うこと。これは修行のこと。けれども、その修行がです。それこそ、女性的な美しさというか麗しさというか、もう美しう一つ修行しょうじゃないかと、歯を食いしばったような修行ではなくして、本当に優雅な修行とでも言おうかね。成程登ることはきつい。きついけれども、視野が開けていくことの楽しみを語り合いながら、信心を進めていこうという会なんです。そういう美登里会の方達がです、どうも合楽の場合は、強すぎる感じが致しますね。
 まぁご主人を尻に敷くような人は、あまりありますまいけれども、それこそ、女賢しゅうして牛売り損なうような感がないじゃないです。今日辺りは、そういうところに一つ、焦点を置いて、美登里会の方達が信心を進めておいでられるなら、もっと素晴らしい会に成長する事だろうと思いますね。黙って受けて行くという事の素晴らしさ。例えば佐田さんの例をとりましたが、始めの間は物言わぬという事は、横から見とっても、大変にきつかろうそうに見えた。
 けれども、それがこの頃はもう有難うて有難うてと言うことになってきた。そしたら神様は磐梯山、磐梯山と仰る。私も今日は頂いた。だから今日の御理解を頂いて下さって、そこんところが納得がいかれたらです、もう磐梯山に足を踏み入れたも同じこと。絶対、そうです。如何に宝の山だからと言うて、そこに金の固まりが、お金がここにある訳じゃありません。
 そこから、本当のおかげを頂いていかなければなりません。そういうおかげをです、今日は、女性の方にという意味じゃないですよ。お互い、男性の上にもです、そういう内容が、二つ自分達の心の中にあるということ。それが適当に拝み合うていくという事。そこから、豊かな肥えた世界の田地が肥えていくわけであります。公害の問題でもそうです。所謂、世界の田地は肥えなければいけません。
 それには人間がです、只、智恵やら力、人間の憶測だけで世の中が治まっていくという事のないことを気が付いた。これでは人間は幸せになれない。いやむしろ、これは人間が、自分自身で首を絞めて行くような結果にしかならない事が、段々わかってきた。そして心だ。これからは心だと言うてきた。そこでお道の信心させて頂く者が、いよいよ豊かな心を以てです、所謂、和賀心時代を創造していくところのお役に立たせて頂かなきゃならんと思うですね。
   どうぞ。